大学4年生の時に当時のエイメイの先生に声をかけられたのがエイメイで働くことになったきっかけです。
もともと「エイメイで先生やってみない?」
と誘われていましたが、
「自分なんかにはエイメイの先生は絶対に無理」と思っていたし、当時は飛び込む勇気がなかった。
だけど、
心の中では「いつかはエイメイで先生をやってみたい」という気持ちがあったので、
エイメイではなく同じみずほ台駅にある明○義塾でアルバイトをすることになります。
明○義塾で働いてる時に参考にしたのがやっぱりエイメイ。
当時、自分がエイメイの生徒だった時のことを思い出して
エイメイの先生は数学のこの単元で何て言ってたんだっけ?
エイメイの先生なら悩んでる生徒にどんな声をかけるのかな?
そんなことを考えながら明○義塾で働いていたので、
雑談が長いとか、
マニュアル通りにやってくださいとか、
生徒のために無料で補習をするのはやめてくださいとか、
明光義塾の塾長に怒られたことがたびたびありました…
印象的だった生徒は3人います
1人は三芳東中の男の子K君で、なんで明○義塾なの?と思うほど勉強が良くできていました。
なので、塾が指定するテキストではなく、当時のエイメイで使っていた練成テキストを勝手に使ってK君の指導をしました。
学校では習わない問題をやること新しい知識を学んで、K君は勉強の面白さにはまり、どんどん成績を伸ばしていきました。
その後、K君は高校受験でICUに合格!明○では初でした!
もう1人の生徒は…富士見西中のH君。
H君は中学入学後に不登校になったけれど、中3から少しずつ学校にも行き始め、
その後に勉強の遅れがあるため、明○義塾に来たという特別な事情がある生徒でした。
H君は勉強の遅れを取り戻すため、ほぼ毎日、明○義塾に来ていたので、話す機会が多く、色々な話をしました。
なんで勉強しなくちゃいけないの?
なんで働かなくちゃいけないの?
学校ってなに?
素朴な質問もぶつけてきました。
素直な生徒だったので、それを一緒に考えたり、熱く話したりした時もありました。
高校受験では定員割れの川越工業の機械科に進みました。
川越工業卒業後に東武鉄道に勤めたと報告をしてくれました。
大変だけど楽しいと言ってくれたH君の顔は忘れられないです。
最後の1人は三芳東のA君。
明○義塾にいたけれど、中3の途中で退塾した生徒です。
家庭環境が複雑で、学校では問題児と明○義塾の塾長から情報をもらって担当しました。
しかし、担当してみたら、見た目と裏腹に甘えん坊で人懐っこいとても良い男の子でした。
教えたことはまじめにやろうとしてくれる素直さもありました。
ただ勉強は苦手だったので、他の先生と協力して教材づくりをしたり、
学校などで問題があった時に相談にのったりしていました。
A君も信頼してくれていたと思うけれど、家庭の事情もあり退塾となってしまいました。
そのときはもっとできたことはあったと後悔しました。
その後、一度だけA君が高校生の時にみずほ台駅で会いました。
しかし、
当時の姿とはあまりにもかけ離れていて、
髪もボサボサ、服もボロボロ、歯も欠けていて、笑顔もぎこちく、もうあの時の面影はありませんでした。
その時に、何でこの子に何もしてあげられなかったのかと強烈なショックを受けました。
明○義塾は大手塾なので、できることの限界を感じていました。
もしかしたらエイメイなら
もっと生徒のためにやりたいことができるかもしれない。
もっと生徒に影響を与えられるかもしれない。
そんな時に、
「国語と数学の先生が足りないんだよなー」
とエイメイの先生が言っていたのを思い出して、すぐに連絡を入れました。
覚悟を決めました
エイメイへ飛び込むことになります。